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山笠

2015年07月08日

所説ある中で、博多祇園山笠振興会は、一般に広く知られている聖一国師が仁治二(1241)年、疫病除去のため施餓に乗って祈祷水(甘露水)を巻いたのが始まりという説を取っている。


7月1日

注連(しめ)下ろし 祭り初日に舁き山笠の流区域を清める行事。

後神入れ 山笠に神を招き入れる神事。

当番町汐井とり 「その年、各流れの当番長になった町の面々(流当番のところは流役員)が、一足先に箱崎浜まで賭けて行き、塩井汐井(真砂)を小さな升やラバ(竹ヒゴであんだカゴ)に入れて持ち帰る。


7月9日

全流お汐井とり 1日の夕方の当番町趣旨と行動はほぼ同じであるが、各流の舁き手が揃うから圧巻だ。



7月10日

流舁き いよいよ舁き山が登場。



7月11日

朝山笠 これも流れ舁きであるが、早朝に町総代や旧役員を呼んで招待するところから祝儀山とも呼ばれる。

他流舁き 一日2回舁くのはこの日だけ。



7月12日

追い山笠ならし文字通り追い山慣らしのリハーサル。



7月13日

集団山見せ 福岡市の要請で昭和37年から始まった。明治通りの呉服町交差点~天神が「舞台」だ。



7月14日

流れ舁き 未熟な舁き手にとっては、山笠が舁ける最後のチャンスでもある。




7月15日

午前4時59分 追い山笠 大太鼓の合図とともに一番山笠から順に「櫛田入り」。

その後境内を出て「追い山コース」を須崎町の廻り止め(ゴール)を目指して懸命に舁く。

「櫛田入り」「コース」ともに所要時間を計測する。  


Posted by sansanhiroba at 11:18Comments(0)日記メンバーコラム

300.AME 尼崎・運命の時

2015年07月08日

選手たちはそれぞれの在住する都府県から前泊するなりして大抵の場合はタクシーに乗って競艇場へやってくる。ここで前述の選手から20分して福岡の選手が乗ったタクシーの1台がやって来た。そこに出てきた女子選手、最近はトップレースにも顔を出すほどの選手になってきた彼女だがこちらをみるやいなやビックリ。回数行っているため覚えているのもあるが・・・やはり福岡からなぜか尼崎の地に筆者がいることなど想像もつかなかったのだろう。しかし女子のトップレーサーの仲間入りを果たしたにも関わらず彼女は偉ぶらなかった。おかげで互いに笑顔の気分の良い再会であった。

そして次々選手がやってくる。九州・山口地区にはしょっちゅう顔を出すということもあり、顔なじみな選手もいた。しかしながら以前のようにしっかりと相手と話せるという環境はなくなっていた。何せこういう選手たちに次々にファンが押し寄せてくるのである。誰か1人と決めているファンは少なく、若手・中堅の人気どころは皆行こうという感じが筆者にもそして多くのファンにもあるようだ。

そして10時40分、運命の時間がやってくる。自分の一番好きな選手がついに尼崎競艇に到着したのである。この日この時のために飛行機や電車を乗り継ぎ尼崎競艇にやってきたのである。相手が九州から程遠い場所の在住であることでなかなか九州管内での出場を待つのは難しい部分もある。それだけにこの関西というのはとてもありがたい場所なのである。交通機関などでも安いものが出来ているわけだから下手に広島や岡山に行くよりは安く上がる。宿も安いのがある。だから気合いも入るというわけなのだ。

いつも思うこと、ミスだけはしてはいけないということである。この場合のミスというのは例えばカメラ等のバッテリー充電を忘れるとか、持って来たプレゼントがグチャグチャになるということ。そして何よりも相手の気分を損ねないことである。一つ間違うと二度と相手にされないという事例も数々見てきている。自分も気持ちばかりが先行して長話になりかけて気まずい感じになったことがあり、その時の自分のショックはかなり大きかった。結果的に幸いだったのは相手がそのことを後で全く気に留めてなかったことだった。

何人か並んだあとに自分の番がやって来た。ここだけは違う気持ちでここが勝負という気持ちは彼女に通じた。彼女と少し話してサインをもらい写真を撮らせてもらって最高の気分でミッションをクリアしたのである。「明日また来ます。明日また渡すものがありますんで」と言ってその場を離れた。しかしこの時だけは久々に充足感一杯になった。日頃の積もり積もったものというのは好きな人間を相手にすると払拭できる。



次の日の開会式では彼女に小ぶりな花束とサッカーのレプリカユニフォームを渡した。ユニフォームはピットでの整備などで汚れやすい仕事でもあるため思い切り汚れてもいい作業着として使用して欲しいとの願いを込めて渡したものである。  


Posted by sansanhiroba at 10:30Comments(0)日記メンバーコラム

299.AME 尼崎に渡る

2015年07月08日

京セラドームから帰り、しばしの眠りに・・・眠れない。久々の野球の興奮もあるが、何せ明日がレーサーファンとしては何よりも大事になってくるのである。

ご存じない方に説明させて頂くが、ボートレース(競艇)というのはレースの前の日の基本午前10時~11時の間にはレース場に入ってくる。(一応のリミットは正午。またナイターレースを行うレース場では午後2時~3時の間に主に入り形式的リミットは4時まで)そうすると尼崎には心の準備のために9時には着いておかなければならない。となれば難波を出るのは8時になる。と考えてしまうと眠れないのである。

それでも前述のカプセル内にあったミネラルウォーターで口の渇きを抑えられたのが効いて今までよりは寝られた。6:30には目が醒めていたが、TVもつけずとりあえず静かにしていた。気持ちを何とか鎮めるためである。そしてカプセルに必要ない荷物を預けたまま外に出た。そこでマクドナルドへ寄っていわゆる「朝マック」をしたが、今回はイマイチだった(前述の松屋に行くべきだった)。そして阪神電車へ。

ICカードの相互利用が出来るということもありJR九州の「SUGOCA」に必要な交通代(阪神・南海)はチャージしていたのでさっと改札を通り抜ける。まずはここで神戸三宮行きの列車に乗る。残念ながらコレは目的地の尼崎センタープール前を通過してしまうため尼崎駅で一旦降りることになる。そして少し待っていると高速神戸行きの鈍行がやってくる。コレに乗ればいよいよ尼崎センタープール前は目前になる。


8:40列車を降りてローソンに寄り、飲み物を買ってから尼崎競艇に到着。かなり早く着いてしまったように思ったが、早々に先客が来ていた。いつもどこの競艇場も一番にいるおっちゃんがいて・・・何だかやりにくいなぁと感じてしまった。この時はまだファンも数人だったがここからまるで地獄絵巻のように人が増えてくる。先程のおっちゃんの派閥が門の右、アウェーや無派閥なファンが門の左に構えた。次々と来るわ来るわ50人以上のファンである。そこで仲のいい人が数人来たので挨拶がてらに話し込んで何とか時間をつぶす。



さぁ最初の選手が入ってきた。いつも早く入るベテランの女性レーサーだが、ほとんどファンが見向きもしない。声をかけたのが数人だった。次に来たまだ1勝しか挙げていない20歳の女子レーサーに写真を撮らせてもらおうと筆者が止めたところまさかさのかここに30人ほどの列が。何ともファンは・・・若い女性には弱いのである。


この女子レースはキャリア関係なく出場メンバーが決まるためベテランから若手まで出る人は多種多様なのだが、とにかく40を過ぎると実力のある人しか呼び止められない。逆に実績がなくとも若くてヴィジュアルのいい選手になると、あっという間に人だかりや人の列ができてしまうのである。若い選手は折り目正しい人の方が多い。そのため次々来る若手・中堅の選手にはファンの列が容赦なくできていた。

つづく  


Posted by sansanhiroba at 10:20Comments(0)日記メンバーコラム

AME真剣に考えたシリーズ 熱中症

2015年07月08日

これからは暑い季節になる。数年前の猛暑で年配の方が亡くなるようになってから熱中症に対する関心や警戒が強くなったと思われる。これから7月に向かっていく中で熱中症は最も怖い時期を迎える。今年もエルニーニョの関係で昨夏のような蒸し暑い夏になりそうで、警戒は最大限に行わなければならない。

もともと症状や対処法が分からずに例えば熱中症は「日射病」「熱射病」などと呼ばれていた。上述した対処法を間違えて処置したために重篤化した例も多々あるようでそれからこの手の症状は「熱中症」として統一されたのではないだろうか(個人の見識)。

よく言われるのが水分だけではなく塩分(ナトリウム)分を取ることだと言われている。そのためナトリウム分を出してしまうような冷たい緑茶などは熱中症が疑わしい時は避けたほうが良いとされている。またマグネシウム分が欠乏すると心臓に良くないとの情報が10数年前TVにあった。そのマグネシウム分を補うために同じお茶の系統でもノンカフェインでミネラル分豊富な麦茶を飲むのが効果的であるというのも最近よく言われている。先人達の知恵は素晴らしく、筆者が幼い35年位前から母は曾祖母にならってよく麦茶を沸かして飲ませていた。


しかし日本の運動部の部活ではまだまだ悪しき伝統がはびこっている所も多く見受けられ、炎天下の練習でも水一滴飲ませないのが後を絶たない。教師よりも先輩格の人間が禁止することが多く、中には死者が出ている。大学などになると金でのもみ消しの噂まで広まっている。死なせるようなまねをして人生を棒に振るぐらいであれば麦茶の一杯など安いものである。それで自分が一生罪の意識を背負っていくぐらいなら。


あと年配の方に熱中症による死亡事案が起きてしまうのには熱さを感じにくくなるというものが関わっている。それ以上に困ったことは年配の方々が意地になってしまい「私はこんな暑さ耐えられる!」と自信過剰になって失敗する例もある。残念だが肉体的に衰えており、また年配の方が過ごした当時と夏の性質が違ってきていることや水を飲まないことが美徳だったという時代背景もあってこらえてしまい取り返しのつかないことになっている場合も多々ある。


筆者の父ももうすぐ66歳昭和40年頃に柔道をやっていてやはり灼熱の格技場で水も飲まずに柔道に明け暮れてた。おかげで水を飲まないというということに美徳を感じていてつい数年前まで意地になっていた。しかし事故にあってしまってからは母の忠告なども聞くようになり、スポーツドリンクのようなものをしっかり飲み熱中症には気を配るようになった。日本の変な美徳は結構心も体も蝕んでいるものが多い。


これからは特に熱中症の危険度が増してくる。今では熱中症に対しての注意を気象台などが呼びかけているため準備はしやすい。あとはこのぐらいできるという過信を避けてスポーツドリンクや塩などを躊躇なく利用するのが賢明である。
  


Posted by sansanhiroba at 10:04Comments(0)日記メンバーコラム

運動音痴 その2

2015年07月08日

さんさん広場のKです。



バレーをならっている子は、ダンスをしている時のみんなの花形だった。その中の1人の子は、ブルガリアかどこか東欧である、何かのバレーの大会の世界選手権の日本代表になっていた。バレーの練習が終わって家に帰ってくると23時頃になるらしい。




それで、その世界選手権のあっている日程が、期末テストに当たっていた。中間テストと期末テストの合計が40点で赤点なのですべての教科が80点以上無ければ、追試を受けるか進級できないことになる。だから練習から帰ってから勉強していたのである。練習だけで疲れるのにと、みんな感心していた。もちろん中間テストの成績はすべて80点以上でした。

それに、ペアで踊るのもあったので、リフティングと言うのだろうか、男性が女性を持ち上げて踊るのもあったので、体重も落とさなければならなくて大変だったらしかった。



彼女は強い意志で、すべてをこなして旅立っていった。でも、世界選手権の結果は覚えていない。



水泳のクラスマッチもあった。よく考えるとすごい学校だった。確か、選手制度を採っていたので出らなくてすんだと思うからである。私の友人(女)が自由形を泳ぐのがメチャクチャ速くて、男子も時計を片手に「すげ~」と感動していた。中学校の時、水泳の特待で入学しないかと言われたくらいの腕の持ち主でした。



〇体育会

中学校に入ると、色々種目も増え、ただ走るだけの種目は減った。小学校の頃は、全員走らなくていけなくて、スタートの時は「最後にはなりませんように」と祈ったのを覚えている。



こんなに運動音痴なのに、スポーツは「見る」より「する方」が好きだから困ってしまう。  


Posted by sansanhiroba at 09:28Comments(0)日記メンバーコラム

運動音痴 その1

2015年07月08日


忘れもしない。小学校の6年の時、跳び箱が跳べないで(何段かは覚えていない)、体育館に1人残されてひたすら跳び箱を跳ぶのを練習させられた事がある。



メチャクチャ悲しく・つらかったのだけを覚えている。最終的に跳べられたのか、そうでなかったのかも忘れてしまっている。ただ、苦痛な気持ちだけを覚えている。


できない生徒をできるまでやらせる事が、「いいこと」か「よくないこと」なのか疑問である。その他の勉強でもそうだ。例えば、単語を10個覚えるとか。「これもできないのか!」とその子に限界を押し付けているようで、私は悲しくなる。もちろん逆のこともあるわけで「達成感」を味あわせることもできる。結果的にどちらの方が多いのだろうか・・・。


〇体育2の女


運動のできない私の小学校の通知表の体育は「2」。

いかにできないかがわかろうと言うものだ。



中学校に入ってからは、ペーパーテストもあるので、少しは評定がよくなった。

でも、運動神経そのものは変わるものではない。


クラスマッチや体育会はメチャクチャ苦痛だった。

クラスマッチでバレーボールの時は9人制で、ボールが来ることが少ない3列目の右か左になる。

でも相手も上手いので、下手な私ばかりを狙ってくる人がいる事がある。



味方はフォローしてくれるが、毎回ドキドキだった。

ひたすら「ボールが来ませんように」と願っていた。

失敗をする度にみんなに悪くて、ドンドン萎縮してしまった。



高校の時は、ダンスの団体演技のクラスマッチがあった。クラス女子みんなでストーリーを作ってそれを演じる物だ。クラスのみんなで発表するのだが、それにも入れてもらえず、「監督」と言う名目で手拍子をしてリズムをとる係りをしていた。悲しい物があった。でも才能が無いのは仕方ない。簡単な「蝶になった気分で」という題で、体操場の端から端まで踊りながら行くというのができないのであるから。



さんさん広場のKでした。  


Posted by sansanhiroba at 09:20Comments(0)日記メンバーコラム