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木曜の市

2015年07月29日

こんにちは、さんさん広場のみかんです。

実は、今日は近くのスーパーの木曜の市でした。毎週、木曜日は特売日なので
一週間の買い物をまとめ買いするようにしています。その日は、いつも目覚めがよく
八時には張り切って買い物に出るのですが、今日は寝坊してしまい、
いつもより一時間遅い九時に買い物に出ました。一時間遅いだけで品薄に
なっている野菜もありました。やはり寝坊はできないな・・・と少しがっかりしました。



家からスーパーまでは歩いても直ぐなのですが、一週間分の食材を手で持つのには
あまりにも負担があるので自転車で行くようにしています。しかも、一回では
自転車に乗りきらず二回に分けて行くようしています。

今日は、五キロのお米があったためにさらに荷物が増えて疲れました。

でも、少しでも節約できることを考えるとそんなこと苦になりません。



一週間に一度の気晴らしになる特売日の買い物は、私にとって欠かせない日課に
なりました。献立を頭に浮かべながらあれこれ考える食材選びの喜びって結局
食べられるという幸せがあるからなのでしょうね。

今日は、アイスとポッキーが安かったです。割安で食後のデザートも買えるなんて
木曜の市は私にとって本当に様様です。



今日は、鳥のささみが安かったので夕食はムニエルにしようと思っています。



  


Posted by sansanhiroba at 12:22Comments(0)メンバーコラム

黒田官兵衛

2015年07月29日

黒田孝高(くろだ よしたか)または黒田如(じょ)水(すい)。

キリシタン大名でもある。

一般には黒田官兵衛(くろだ かんべえ)と呼称されているが、実際には
「かんびょうえ」と呼ばれていた可能性が高い。

元々は備前国邑久郡(おぐぐん)福岡村がルーツだが、祖父の代に播磨国に移り、
官兵衛は播磨国守護、赤松晴政重臣の小寺政職の近習として仕えた。

いわゆる、陪臣である。永禄12年、木下秀吉に2万の兵で攻め込まれる。

更に赤松政秀も呼応した。

味方からも離反者(りはんしゃ)が相次ぐが、見事に撃退、武勇を発揮する。

その時期、畿内(きない)で勢力を拡大し、天下に号令せんとしていた織田信長
に対し、足利義昭が叛旗(はんき)(実際には足利家の方が家格(かかく)は上だが)
を翻し、武田信玄、上杉謙信、北条氏政、朝倉義景、浅井長政、三好三人衆、
本願寺(ほんがんじ)顕如(けんにょ)、筒井(つつい)順慶(じゅんけい)、
松永久(ひさ)秀(ひで)、宇喜多(うきた)直家(なおいえ)、毛利(もうり)輝元(てるもと)、
延暦寺(えんりゃくじ)、雑賀(さいか)衆(しゅう)等(など)と信長包囲網を形成する
(時期によって参加大名は異なる)。

しかし、織田信長は足利義(よし)昭(あき)を京から追い落とし、延暦寺を焼き討ち、
朝倉・浅井連合軍を姉川(あねがわ)の戦いで撃破(げきは)、浅井長政を
小谷(おだに)城(じょう)で滅亡させる。

武田信玄や上杉謙信も病死し、信長包囲網は弱体化する。織田信長の才能を
早くから評価していた官兵衛は主君(しゅくん)、小寺(おでら)政(まさ)職(もと)に
織田氏への臣従(しんじゅう)を献言(けんげん)、羽柴(はしば)秀(ひで)吉(よし)を仲介に
織田信長に謁見(えっけん)を許される。

一方、信長は松永久秀を攻め倒し、秀吉を播磨へ派兵、官兵衛は秀吉の傘下に
入る。

ところが播磨(はりま)の豪族(ごうぞく)である別(べつ)所(しょ)長政(ながまさ)が周辺の
豪族と共に叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)し、毛利と宇喜多、雑賀衆が呼応して
造反、窮地(きゅうち)に立たされる。

官兵衛は宇喜多直家を調略するが、摂津(せっつ)で荒木村重が造反。

それを翻意(ほんい)させようと、荒木村重の所へ乗り込んだが、逆に幽閉(ゆうへい)
される。

約1年後に救出される。

それから本格的に羽柴(はしば)傘下となる。

その後、中国平定戦、備中高松城攻略、中国大返し、山崎の戦い、
賤ヶ(しずが)岳(だけ)の戦い、小牧・長久手の戦い、四国攻め、九州征伐(せいばつ)
等(など)で武勲(ぶくん)を上げた。

関ヶ原の戦いでは中津の地におり、直接は関与していない。

関ヶ原の戦い後、子息の長政に「その時、おまえの左手は何をしていたのか」と
言い放ったと言われているが、実際にはそのような発言はしていないとされる。

実像よりもイメージが先行してしまった代表例と言えるだろう。

福岡の地に転封(てんぷう)された時は既に子息の長政に家督(かとく)を譲っている
ので、福岡藩の初代藩主は黒田長政だが、藩祖と呼ばれている。

また福岡の地名はルーツである福岡村から取ったと言われている。  


Posted by sansanhiroba at 11:40Comments(0)メンバーコラム

家庭教師 その2

2015年07月29日

さんさん広場のKです。




後は口コミで広がり、生徒は増えていった。平日は17時~19時、19時~21時と
2人教えた。土曜日は、実家が岡山の田舎にあり、高校の寮に入っている生徒に、
お家に帰る途中に我が家に寄ってもらって教えた。日曜日は、午前中に姉妹を別々
に教え、午後は違う生徒を教えていた。



一番たくさん生徒を教えていた時は、10人を越えた。若い頃結婚したので、
私の収入はとても大事だった。



中学生の頃、be動詞と一般動詞の区別が付かなかった生徒が、高校に行って
英語が得意になった。3年間、教え続けた事がやっと身に付いたのだと思う。
とても嬉しかった。



英語は他の教科と違って、ちょっと勉強したからといって効果が出るものではない。
上手く説明できないが、コップに満タンに水が貯まらないと成果となっては出てこない。



1/10でも9/10でもダメなのだ。10/10にならないと英語のテストでは点数に表れない。
でも、答案用紙の埋まり方が違うし、だんだんあとちょっとで正解になる答えが書ける
ようになる。とにかく、英語をフレーズでコツコツと覚えていくしかない。



英語が話せるようになるには、どんな教材よりNHKラジオの基礎英語・続基礎英語・
英会話を毎日聴いて、その日1つでいいから英文を覚えていく事だ。
私は、ノートに書いていた。今まで、英語ができる人に聞いたら、本当にNHKラジオを
聴いているとみんな言っていた。



嬉しかったといえば、大学受験に合格したお礼に、新品の自転車をもらったことである。
カゴに「熨斗(のし)」が付いていて、ハンドルに紅白のリボンが付いて送ってきた。
私の自転車は中古で、全く磨いてもなかった。それで、そこのお父さんはずっと
「磨いてあげようか」と思ってあったそうだ。それで新品の自転車が贈られてきた
次第だ。合格が厳しいラインだったので、よほど嬉しかったのだと思う。



家庭教師は面白かった。大学に入る時は、「絶対に教師になりたくない」と思っていた。
だから、どこも「教育学部」を受けなかった。ただ、親が「取れる資格は取っておけ」と
いったので、「教員免許」は教育学部に通って取った。



「その1」でも書いたが、自転車は重要な交通手段で、法文学部から教職課程を
取るために教育学部に10分間の休み時間で歩いて移動する事は不可能だった。
自転車で行くしかない。そこで、自転車に乗れなかった
(福岡では必要なかったからだ。)私は、夏休みに実家に帰った時に父と練習をした。
一日で乗れるようになった。  


Posted by sansanhiroba at 11:15Comments(0)メンバーコラム

家庭教師 その1

2015年07月29日

大学生時代は、親の仕送りと奨学金とバイトのお金で暮らしていた。
バイトは家庭教師ばかりで、すし屋の電話番をしたことがあるくらいだ。
本当に、すし屋はまだ作ってないのに「今出ました」という所だという発見があった。





家庭教師では、基本的に中学生に英語を教えていた。高校生を2人だけ教えたが、
さすがに予習をしていった。男子は一人で、後はみんな女子だった。
最初に、大学の厚生課に行って、「家庭教師のアルバイトはありませんか?」と尋ねて
いったことから始まった。ちょうど一件あってラッキーだった。



大学が紹介してくれたのは、中学生の女の子だった。そこは夕食付きで、
休憩の時に生徒と一緒に食べた。自炊の学生にとって、食事が付くのがありがたい。
友達には、「お風呂付き」という人もいた。当然、彼女の下宿にはお風呂がないからだ。



その生徒の家は商売をしていて、食糧品を扱っていたので、たまにレディボーデンの
アイスクリームをもらった。遅くなったり、雨が降り出したりした時は、
軽トラに自転車を乗せて送ってくれた。



その最初に教えた家のお家の人は、商売を広げているところだった。
教え始めてどのくらいたった頃だろうか。まだ、高校生になっていなかったから
2年ほど経ってからだろうか。郊外に(この頃岡山に住んでいた。)
100坪くらいの土地を買って、そこに家を建ててトラック置き場も作ってあった。



商売のことは分からないけど、無理をされたのだろう。ある日、いつものように
遠いけど自転車に乗って(これしか交通機関がなかった。)行ったら、
そんなに怖そうではなかったけど数人のお兄さんがいた。
そして「この家の人は出て行ったよ。」と言われた。



つまり、借金で首が回らなくなって、夜逃げをしたのだった。
でも、そんなにびっくりはしなかったと思う。「どうしているのだろう?」と思いながら、
自転車をこいで帰ったのを覚えている。



後日、電話があって(郵便局の2階に住んでいて、そこから呼び出してもらっていた。)、
「商売に失敗したので、何も持たずに出たのです。今までの分はお支払いします。」
と言われたが、送られてくる事はなかった。

さんさん広場のKでした。  


Posted by sansanhiroba at 11:01Comments(0)メンバーコラム

休日の過ごし方

2015年07月29日

こんにちは、さんさん広場のみかんです。

みなさん、仕事のない休日はどのように過ごされていますか?

私は、できるだけ平日に出勤して土曜日、日曜日をゆっくり家でくつろげるようにして
います。土曜日は近くのレンタルショップにDVDを借りにいって家でDVD鑑賞したり
図書館で雑誌を借りて読んだりしていることが多いです。
たまに天神に出かけ映画を観たり食事をしたりショッピングをすることもあります。

一昨日は、天神のソラリアプラザのオットーカフェで友達と外の景観を楽しみながら
焼きプリンを食べました。食べ終わって、私の好きなお店を見に行ったら店内が
全商品セール中で見るだけのつもりだったのについ勢いでベージュの襟なしの
シンプルな服を一着買っちゃいました。半額でゲットできたので、
その日は一日中ほくほくでした。

帰りに西通りで食事をして帰ろうと思ったけど時間が遅かったし疲れてもいたので
家の近くのスーパーでお惣菜を買って家でゆっくり食べました。

嬉しく楽しい一日でした。

日曜日は、次ぎの日が仕事ということもあって家で過ごすように決めています。

洗濯や普段いきとどかない掃除をしたりお洒落着の服にアイロン掛けをしたり
夕食はいつもより手の込んだ食事を作るようにしています。

昨日は、ホワイトソースからシチューを作りました。お肉ではなく鱈のシチューにしました。

時間をかけた分、満足の食卓でした。

仕事をしていると休日にありがたみが湧くようになりました。
休日こそ大切に過ごしたいです。

  


Posted by sansanhiroba at 10:24Comments(0)メンバーコラム

ローマ その2

2015年07月29日

もちろん「ローマの休日」ごっこをした。

トレビの泉

トレビの泉に行って、後ろ向きにお金を投げた。トレビの泉には、
休憩時間というものがあり、全員トレビの泉から離される。
私が思うに人が溺れてないか確かめるためだと思う。

真実の口

教会の中にあり、一人一人写真を撮るので、10分くらい並んで待った。

スペイン広場

思ったより狭かった。もちろんジェラードは食べた。

他の観光地

全部紹介していたら、何枚あっても足りなので、覚えている限りの行った
観光地を紹介する事にする。


・フォロロマーノ

紀元前6世紀のローマ帝国の跡地。これは、絶対に行かないといけない。

・コロッセオ

闘牛場跡。命を賭けて戦った所だ。観光の写真用にその当時の服装をした人達がいた。

・バチカン美術館

朝8:30から並んで入った。

・システィーナ礼拝堂

ミケランジェロの傑作。

・バチカン市国

世界で一番小さな国。警備をしている人の着ている服がド派手。

・サンピエトロ広場

4本の柱で囲まれた広場。4本の円柱が重なり合って1本に見えるところがある。
中央にオベリスク(記念碑の一種)がある。

・サンピエトロ大聖堂

カトリックの総本山。ここから、法王が広場に向かって立つ。

・サンタンジェロ城

色んな使い方がされたが、要は城壁。

・ナヴォーナ広場

競技場が元になっている。近くに有名な朝市がある。

・ポルゲーゼ美術館

バロック美術。ネットで予約が必要。

・ピンチョの丘

ポポロ広場(ローマの入り口に当たる)が見渡せる。

ローマ自体が博物館

上記以外もたくさん観光地はたくさんある。ローマ帝国の素晴らしい遺跡をぜひ
見ていただきたいと思う。ツアーでなく、4~5日はじっくりと滞在していただくことを
お薦めします。

食事

ひたすらピザとボンゴレビアンコ(あさり貝とワインのスパゲッティ)を食べていた。
ピザはどこでもおいしかったが、スパゲッティは店によってさまざまだった。
遠くに行くのが面倒な時は、隣のレストランに行った。お陰で、その店の
ウエーターと仲良くなった。ミラノ風カツレツは普通だった。

次は

またローマに行って見たい気もするが、ミラノ・フィレンチェあたりに行ってみたいと思う。  


Posted by sansanhiroba at 10:08Comments(0)メンバーコラム

ローマその1

2015年07月29日

暑い




急に暑くなってきた。暑いと言えば、ローマを思いだす。お盆の休みを利用して
ソウル経由でローマに行った。多分ソウルから12時間だったと思う。
ツアーで行かずに、飛行機のチケットとホテルだけを取った。ホテルは、
有名なテルミニ駅のすぐ側に取った。



ローマの空港に着くと、列車でテルミニ駅に向かった。英語表記があるので、
迷わず列車に乗れた。でも、ドアの幅が狭くて、荷物を入れるのが
たいへんそうだった、夫が。私が重い物を持つはずはない。



ホテルは分かりやすいところにあり、迷う事はなかった。安くて綺麗なホテルだったが、
ヨーロッパの人々は明るい照明に慣れていなく、スポットライト照明ばかりで、
部屋が暗かったのが印象に残っている。朝食は付いていた。ヨーロッパのホテルでは、
どこもパン・チーズ・コーヒーがおいしい。



話が横道にそれたが、本当に暑かった。いくつか暑さ対策グッヅは持って行っていた
が、足りなかった。一番重宝したのが、町のあちこちにあるライトバンの店だった。
凍ったミネラルウオーターが売ってある。夫はそれを買っては首筋に当てて
冷やしていた。そのミネラルウオーターの水がドンドン溶けていくのである。

地下鉄の切符

もっぱら、地下鉄と徒歩で観光した。バスは日本でも迷うくらいだから、
乗らない。後、どうしようもなかったらタクシー。特別高いという印象は受けなかった。



地下鉄の自動券売機はあるが、いつも人だかりで誰も買うことが出来ない。
お互いの言語で何となく通じるところがおもしろい。後で分かった事だけど、
お釣りが出なくてちょうどのお金を入れないと駄目らしいと言う事だった。



じゃあ、どうするかと言うと、近くの商店(例えば本屋・レストラン)に売っているのだ。
「ticket」と看板が出ているところもあったが、大抵出ていない。
どこで買っていいか分からない。地下のホームでどこにも店がないときは、
とにかく外に出て、誰かに聞く、もちろん英語で。状況から察してくれるのだと思う。
買えなかったことはなかった。



さんさん広場のKでした。  


Posted by sansanhiroba at 09:44Comments(0)メンバーコラム