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306.AME考えると夜も眠れない? 日本の紙幣

2015年07月21日

日頃から紙幣を使う世界自由の人々。その中でなぜお札の肖像画というものは今のメンバーなのだろうか?一万円札の福沢諭吉は代わっていないが、五千円札の樋口一葉と千円札の野口英世は一番最近変わった肖像である。もうこの2人の肖像になって結構なるが、驚くのがそれまでガンガン流通していた新渡戸稲造の五千円札と夏目漱石の千円札が完全に姿を消してしまったということである。交換したりしていたのかもしれないがATMとかで当たり前に流通していた夏目漱石の千円札などここ10年で1枚だけしか見たことがない。

筆者は40になるが、今の30代から下の人は一万円札と五千円札の肖像画が聖徳太子であり、千円札が伊藤博文で五百円札なるものがあり岩倉具視であったことをご記憶の方は少ないだろう。もっとも伊藤博文とか名前だけ聞いたらどこにでもいそうな平坦な名前のように聞こえるが。

母なんかに言わせると「日本の紙幣の肖像画はやはり聖徳太子にするべきでは?」と言う。やはり日本の基礎というものを築いた聖徳太子こそが特に一万円札になるべきではということである。福沢諭吉でも一万円札を見ると興奮してしまう。やはり金員・・・ましてや紙幣というものは人を興奮させてしまう。しかし聖徳太子の一万円札でもしもロト7の最大の8億円が当たって8万枚もの一万円札でそれぞれ百万円ずつになった束などを見た瞬間には完全におかしくなってしまうだろう。


二千円札が発行になった時に日本人は使いにくいとして見向きもしなかった。釣り銭として渡されたことがあるものの全く使いようがなく困ったことがある。しかしここの肖像が沖縄の守礼門だったということから沖縄県では普通に使用されており、両替機なんかでも普通に使用できるらしい。但しこの福岡ではこの10年見たことがない。


かつては聖徳太子の千円札や板垣退助の百円札というものもあった。またさらに昔の紙幣では一万円札当時の聖徳太子とは全く違うデザインの聖徳太子が描かれていた紙幣もあった。そして古くなった紙幣はまた紙となって加工され、再度紙幣になることがあるという。現に今使用されている福沢諭吉の一万円札は寿命が5~6年ともいわれている。古銭を扱う店で古い紙幣の取引なども行われているが、やはり価値があるようだ。福沢諭吉の一万円札になった後の刑事ドラマで「旧札(聖徳太子の一万円札)で一億用意しろ!」という脅迫のセリフがあったほどである。あと困ったのが、五千円札の使い道である。いろいろなことで千円札に比べるとどうも扱いにくく、両替機に通らないとか使い勝手は今ひとつである。結構五千円札というもののデザインとかは好きだし財布の中でも見栄えがするとは思うのだが。新渡戸稲造の五千円札を始めていただき手にしたときは感動したのだが。



かけがえのない紙幣。気がついたときに感謝をして使ってゆこう。  


Posted by sansanhiroba at 12:37Comments(0)日記メンバーコラム

305.AMEまたウエストとサイゼリヤへ。男40・麺を語る

2015年07月21日

筆者相変わらず仕事上がりにはサイゼリヤである。何より仕事場に近く、終るとすぐ行ける。ドリンクバーがあることからしばらくは一人にしてくれるのがありがたい。

そのサイゼリヤで最近筆者の注文に異変が起きている。最初の頃は「サラミとパンチェッタのピザ」ばかり頼んでいた。また一時期は199円のつまみにはまっていた。それが最近ちょっと違う。やはりイタリアンレストランという肩書きを謳うだけありパスタを注文する客が多い。筆者はどうもそれまで外食産業でうまいパスタに当たったことがなくパスタは注文しなかった。しかし何か異常に腹が減っていることがあり、たまにはと思って定番のミートソースを頼んだ。自由に使っていい粉チーズをガバッとかけて食したのだが、ビックリした…うまい。

いわゆるパスタの茹で加減を硬めにしてパスタにソースを絡めるわけであるが、そのソースとバスタの絡み具合、そしてその味、茹で加減共に申し分なかったのである。家で食べるパスタとは何かが違うという感じである。先日は友人と行き、トマトソースのパルマ風スパゲッティを頼んだ。パンチェッタ(ベーコン)がたっぷり入り、濃厚なソースはトマトから出る旨味が存分に出ていた。ペペロンチーノはニンニクくさくなるからやめようと思うが、オーソドックスなこの2品は食べる価値がある。

やはりここはイタリアンレストランという肩書きの面目躍如というところである。その数日前の話であるが、サイゼリヤの少し手前にあるウエストに2度寄った。どうしてもここで和の麺が食べたくなり「ごぼうかき揚げのそばとうどん」を一度ずつ注文した。出てくるのはキャノーラ油で揚げたてのかき揚げとうどん・そばの麺。そこにネギと天カスのボックスが置いてありこれは入れ放題。容赦なくこれをどっぷりと入れて麺をすすったのである。ここもいい加減な麺の作り方はしていない。麺の味にもダシの味にも具材の味にもこだわった一品であった。ちなみに我が家ではいわゆる冷麦というものが出てきた。これが本当にうまかったのである。薬味にはミョウガや青じそを入れて。なぜかスルスルと行けるのである。


日本では米を主食に食べることもあり、麺というのは一歩低い位置で見られているのではと筆者は時として思う。しかし麺という文化は実は世界共通であり、いろんなものがある。ただ惜しむなくば米よりも腹にたまりにくいという欠点があった。パンほどではないが、米よりは腹持ちしない。これが残念である。


しかし筆者が最近麺を食べている回数が実に増えたような気がする。簡単なように見えて奥が深いのが麺なのかもしれない。但しあまりラーメンは食べていない。なぜか?とにかくラーメンだけは急かされているような感じがしてラーメン屋にどうも入りたいという気持ちが湧かないのである。結果として昨年の11月以来外でラーメンを食べたという記憶がないのである。この傾向はしばらく続くであろう。  


Posted by sansanhiroba at 12:23Comments(0)日記メンバーコラム

お弁当

2015年07月21日

職場で毎日、お弁当を持ってきてある方がいる。

「すごいな」と尊敬してしまう。毎日お弁当を作ってみて分かる「ありがたさ」である。


私が中学生の頃は、福岡市の中学校はまだ給食が始まっていなかった。4つ年下の妹が中学生になった頃には給食が始まっていたから、ほんの数年の違いで始まったと考えられる。センター方式だった。給食には、自校方式(自分の学校の給食室で作る)とセンター方式(センターで作って各学校に配る)がある。もちろん、自校方式の方が断然美味しい。メニューの数が違うし、温かい。



私の頃は、かわいい弁当箱とかはなく、アルミの長方形の弁当箱を新聞紙で包んでくる人も多かった。



一度びっくりした事があった。ご飯だけ詰めてあるアルミの弁当箱を持ってきて、缶詰のカレーを開けてかけた女の子の弁当だ。



それと私の学校だけかも知れないが、各教室に1個お茶が入った「やかん」が配給され、日直がそれを持ってくるのだ。



パン注文も係りが決まっていて朝に会でパンを注文する事が出来た。でも、母は「私がパン注文をしたい」と言わない限り、必ずお弁当を作ってくれた。自分で作るようになってからその大変さを知った。



今、83歳だが実家に行っても食事を作るのは母だ。本当は娘が作ってやらなくてはいけないのだが。母が作った物はおいしいのだ。



中学校には、ALT(アシスタント ラングエッジ ティーチャー)と言う人がいて、英語を母国語とする人で文部科学省に雇われた人たちがいる。彼らは、英語の時間に日本人の英語教師と一緒に授業をする。小学校では、担任の先生や係りの先生と授業をしていると思う。欧米では日本と違って、大学生くらいになると家を出て自立する。



その人たちは、30歳ぐらいになっても実家にいて、親にお弁当を作ってもらうということを聞いたら、驚かれる。ALTの先生達もお弁当を持ってくるが、サンドイッチだけとかパスタだけとかがある。



それでいいのである。自分で作ったということが大切なのである。私の作った弁当は「醤油色ばっかり」と言われる。もう少し、ブロッコリーやプチトマトで飾ればいいのだろうが面倒くさいので。人に見せるものではなく、「自分で食べるので構わないや」と思っている。



だから、夫の弁当は絶対に作りたくない。人に見られるので、それなりの弁当を作らなければければいけないからだ。



言いたいのは、「人に作ってもらった弁当に文句を言ってはいけない」ということである。「感謝して食べなければいけない」ということである。



さんさん広場のKでした。  


Posted by sansanhiroba at 11:55Comments(0)日記メンバーコラム

私がトライしたスポーツ その2

2015年07月21日

さんさん広場のKです

〇スキー

意外に上達したのがスキーである。もちろん、運動音痴の私のことだから、人が1回で覚える事を、私は5~6回かかった。でも、続ける事には自信があるので、何とか覚える事が出来た。北海道は、「沼田(函館)」「ニセコ」と「富良野」に行った。北陸は、金沢の「一里野」に行った。



後は、「大山」ともっぱら広島の北のほうである。「瑞穂ハイランド」「芸北国際」「サイオト」「恐羅漢(おそらかん)」等。スキーシーズンになると隔週の割合で、友達と夜行のスキーバスを使ってスキー場に通った。



スキー場は人を集めなくていけないので、そのためには女子にアピールしないといけない。どこに行くかの決定権は女子が持っている。なので、女子トイレ・更衣室がドンドンきれいになった。



私がスキーに夢中になっていた頃は、スキーブームで、「私をスキーに連れてって」という映画がヒットした後だった。リフトの待ち時間1時間はザラだった。今は、待ち時間はなくスムーズに流れているらしい。



確か、土曜日の夜23時頃に博多駅の筑紫口を出発して、途中2号線の「貝汁」がおいしい店に寄り、朝方スキー場につくというスキーツアーだ。帰りは、現地を17時頃に出発し、22時頃に博多駅の筑紫口に着くという行程である。



当然だが次の日は仕事なので、一刻も早く家に帰りたい。「小倉」でバスを降りて、新幹線で帰ると1時間くらいは早く帰り着く方法を仲間の一人が気付いた。もちろん実行した。この1時間は大きかった。



もうこんなハードな日程では行けない。飛行機で行って、ちょっとバスに乗るくらいのところでは無いと無理だ。以前に持っていたスキー道具はリフォームした時、一式捨ててしまったので(スキー板とかにも流行があるので)、老後の生活に入ったらレンタルでやってみようと思っている。

でも、老後になったらスキーをする元気もなくなっているような気がする。



腕前は、中級者だろうと思う。怖がりなので,胸を谷の方に向けることが出来なので、上級者にはなれないのである。でもダラダラとなら滑れるので、時間がかかっても上級者コースを滑ることができると思う。  


Posted by sansanhiroba at 11:47Comments(0)日記メンバーコラム

私がトライしたスポーツ その1

2015年07月21日

運動音痴なのに、スポーツは見るよりする方が好きである。

トライした物を紹介してみようと思う。

〇テニス

大学の頃にスクールに通った。コーチと打ち合うと、上手く行くのだが、生徒同士ですると全く上手く行かない。コーチは、どんなボールでも打ち返してくれるし、こちらが打ちやすいように打ってくれる。



安い練習場を見つけては、友達と練習はした。でも、私が走ってボールを取りに行かないから、練習にならなかった。



〇ボーリング

大学2年生の時の体育は、自分で好きな種目を選べた。スキーや水泳もあったが、何かあって履修できなかったら困るし、到底私ができる訳はないのでやめることにした。今だったら、スキーを取っておけばよかったなと思う。一応、スキーはするので。




その中にボーリングがあった。半年で、着替えずにできるし、天候に左右されないのでいい。シューズ代ぐらいは払ったと思うが受講料は安かったと思う。ボーリング場の教室で講義があって、次に実際にやって見るのだ。だから、私の理論は完璧だ。スコアーは悲惨だが、習っていた頃はまあまあのスコアーだったと思う。



〇ゴルフ


友達の彼氏がゴルフをするので、彼女もできるようになりたいとのことで、友達4人で習いに行った。半年でワンクールだった。




テキストを使って理論を勉強をして、その後で打ちっ放し場に出る。打ちっ放し場では、先生が見えない所か柱の影とかに隠れているのに、「はい。Kさん前に来て」「これが悪い例ですね」と必ずみんなの前でさせられることだ。さすがにへこむ。最初の半年は、先生が何を言っているのか分からなかった。で、半年でワンクールを後2回受講した。3回受講したお陰で、男の人と一緒に回って迷惑をかけないくらいにはなった。




ところがである。去年からゴルフを再開した。飛ばないのである。ワンポイントアドバイスのようなゴルフ教室に何度か通ったが「手が返ってない」と言われるだけで、全然上達しない。

続けるかどうか迷っている。



せっかく老後の楽しみの一つに、夫がゴルフにのめりこんでいるので、2人で本コースを回ることがあったのに。何とかできるようにならないだろか。



さんさん広場のKでした。  


Posted by sansanhiroba at 11:38Comments(0)日記メンバーコラム